2015年3月の初個展
「田嶋陽子 書アート展 こもれる日々」(表参道ギャラリーコンセプト21)
出品作品を収録した作品集です。

こもれび 455 × 578
悲母観音 1370 × 350
青蓮観音 1370 × 350
南無大地母神 1800 × 1800
370 × 310
菩薩 1370 × 570
南無巨石観音 1350 × 350
百壽図 1360 × 696
450 × 985
雨の符号 695 × 690
370 × 350
童の肖像 1335 × 695
陽が翔ぶ 198 × 290
Women count, Count women's work. 695 × 690
風神 345 × 462
酔うて候 260 × 350
560 × 775
生花 675 × 695
蒲生原 408 × 350
飛天 460 × 350
華の齢 497 × 300
壽樂玄竹図 700 × 565
花の音 270 × 240
東風吹かば 325 × 450
日和 378 × 428
山中無暦日 345 × 557
恋慕う 215 × 318
めでたし! 380 × 450
語らい 350 × 400
いいかげんにせい 1370 × 350
425 × 255
生きる 495 × 164
一人行 320 × 288
はじまる 630 × 350
幻櫻夢 350 × 460
かぐや姫の月 345 × 455
生きるちから(部分) 525 × 1130

こもれる日々の中から

田嶋陽子

 最近、なにやら戦前を思わせる怪しい雲行きとともに、戦後70年ということばが飛び交っている。私は今年で74歳、太平洋戦争が始まった年に生まれた。生まれて半年で満州に連れていかれ、引き上げ、疎開、敗戦をそれなりに体験。復員した父は、戦争中の苦労がもとで寝たきりになった母を看病しながらの戦後再出発となった。みんな貧しかった。浮浪児と売春婦と物乞いをする手足のない復員兵を、日々、目にしていた。

  それでも子どもの私は、それなりに夢をもって小学時代を送っていた。小6のときの作文で「将来は総理大臣になる」と書いた。先生は「道は近い」とコメントしてくれた。続く中学時代は、今思えば私のささやかなルネッサンスだった。勉強はできたし、絵や書道やテニスでも、市や県の賞を取り、読書感想文は全国で入賞した。音楽でも先生たちの合唱団の指揮をしたりした。このころは世界一の外科医になって小説を書くことを夢見ていた。

 ところが、誰よりも尊敬していた中学の先生から「女はメンスが来たら終わりだよ」と面と向かって言われた。ふだんから近所のおばちゃんたちに「ヨーコちゃん、惜しいねえ、女で」とか「男だったらよかったのに」とかと言われ、親からも「勉強ができても、しょせん女だからね。どうせヨメにいくんだから」と言われ続けていた。だが、その先生の一言で、脳天をぶち抜かれた。そのうえ、私の初恋日記を読んだ親は「色気づいた娘は男女共学にはやれない」と、進学校へ行かせてくれなかった。日記帳を一枚一枚はがして、火鉢で焼かされた。自信も夢も未来もなくしたまま、高校生になった。早く地元を出たかった。

 高校では図書館に入りびたって、手当たり次第、露、仏、英、独、そして日本の小説を読みあさった。どの国の小説でも、自由を求める女たちは社会から罰せられた。女の上にいる男たちも政治がらみになると同じだった。小林多喜二の人生に出会い、大杉栄に出会った。その大杉栄を、神近市子が刺した。神近市子は、当時、女性初の国連大使だった藤田たきと同じ津田塾大学だった。津田梅子を敬っていた私は、津田塾大学を選んだ。

 それまでの私は、小中高の先生たちからはヘンなものでも見るような目で見られてきたが、大学では私のことをおもしろがってくれる先生たちに出会えた。3年生のとき、イギリス人の先生が、私の書いた英文の短編をイギリスの雑誌に送ってくれた。「へぇー!」と思った。そのあと卒業論文の指導教官は、自分のオリジナリティを磨き育てる苦しさと面白さを教えてくれた。ちなみにその先生は、私が女性学の紹介で初めてテレビバラエティの「笑っていいとも!」に出演したとき「大学教授が笑い物になるなんて」と激怒、私を〝破門〟にした。

 大学院を出て、母校津田や東京女子大などで教え始めてすぐ、奨学金を得てイギリスに語学留学をした。イギリスでの人間解放は、日本より20年、30年と先を進んでいた。私はヘンじゃなかったんだ! 私の中の「人間」が息を吹き返した。

 少しずつ自分を取り戻し始めた。そして専門だったイギリス小説研究に女性学の視点をクロスさせることで、自分だけのオリジナルな研究を実らせた。研究論文を一つ書くごとに魂が鎮められていった。女性学の視点で本を書くことで、自分で自分をセラピーすることになった。一冊書き終えるたびに、私は解放されていった。

 ここまでくれば私の人生、私のもの。そうだ、46歳まで生きたような気がしなかったから、その倍の92歳まで生きてやろう、そう心に決めた。自分を取り戻してからは、人の批判も気にならなくなった。ひょんなことからテレビに出て、みんなのイヤがるフェミニズムを訴えて四面楚歌になったりもしたが、もう失うものはなかった。痛めつけられた心は、軽井沢の自然が癒してくれた。

 60歳で大学をやめて、63歳で議員をやめてから、1年間何もしない生活を送っていた。たまたま軽井沢の冬の町おこしに声をかけられ、それがきっかけで、歌を始めた。時間ができて心が落ち着くと、無性に白と黒と筆の世界が懐かしくなった。毎年、軽井沢の雪を見るたびに、心が躍った。この雪を墨で描けたら! 

 中学時代の作品作りは、宿題やら授業の課題やらで仕方なくやっていたが、今思えば、無心だった。先生がたまたま外の世界に出してくれて、それが賞につながったりしただけのこと。私はその無心の自己表現に戻りたかった。

 いろんな先生に出会った。そのうちの一人の先生に、「一」の字を1000本書くことが基本だと言われた時、人生の残りの時間が少ないことを考えて困ってしまった。そんなとき、岡本光平先生に出会った。「上手な字を書こうとするな。人間力で書けばいい」という先生の言葉に救われた。「書道」ではなく、ラインアートとしての「書」、これなら、私も自分の世界がつくれるかもしれない。やっと残りの人生に希望が広がった。

“素”の人

書家 岡本光平

 田嶋陽子という人は不思議な人である。

 人間は大体においてある年齢に達すると性格も人柄も一つの色に固まるものだと思っていたが、田嶋陽子という人には簡単にはあてはまらなかった。

 ある時は舌鋒鋭く社会事業を展開したかと思うと、ある時はだだっ子のようなワガママぶりも見せる。どちらも歯に絹着せない物言いは同じだた、周りは時に翻弄されることもある。周囲にとても細やかな気遣いを見せるかと思えば、時にヤンチャな傍若無人ぶりをチラリと見せることもある。

 しかし、なぜか憎めない、憎まれない。童女のようなワガママぶりと素直さを併せ持つその人柄は、接した人たちの心を掴む。人気があるのだ。とくに同じ一部の女性たちには人気が衰えない。オヤジたちはというと、女傑登場とばかりにチラッと戸惑いと警戒の表情を浮かべ、天敵に遭遇したように腰が引け気味になるようだ。メディアでつくられたイメージのせいだろうが、まことに不思議な魅力というか、天性の人徳みたいなものがある。

 しかし、そういうキャラクターだけなら世の中で珍しいこともない。田嶋陽子という人には知られざるもう一つの貌がある。

 シャンソン歌手としての活動はファンにはすでに知られているが、“書”を書き、“画”をたしなむというのは世間にはほとんど知られていない。今回が初めての個展である。

 個展開催は長年の夢だったようだ。

 個展の開催を決心してから丸2年間、汗を飛ばして対策に挑み、普段の饒舌を封じ込めて軽井沢の自宅で’沈思黙考し、忙中に閑をつくって作品を一人書き続けた。

 本来の書画の制作というものは内なる自分との対話である。一種の“鬱”のモードに入らないと生まれてこないのである。

 プロの職業的な表現技術者は、なまじっかの技術があるばかりに世間の目をそちらに向けさせて感心させる術に慣れてしまっていて時に卑しい。技術がいくら上手くてもそこには心底の吐露がない、つまらない作品が多い。しかし、幸いにも現在位置の田嶋陽子はどちらも上手すぎない素人芸なのである。

 幸いにもというのは、表現がスレていない、という意味である。素人の芸というのは、単なる未熟というだけのことではなく、“素心”があるかどうか、ということが問われなければならない。このことは実はプロアマ関係なく芸術の根幹なのである。田嶋陽子という人にはそれがあった、ということが今回の展覧の最大の意義なのであり、田嶋ファンにはそれを見て感じてもらいたいと思うのである。上手すぎないところに人間田嶋陽子の心底が見える作品が勢揃いしたのである。それはたいへんに喜ばしい初個展になったと思うのである。

 ところがである。本人は、「どうしたらいいの、自信がないの」と、個展をやりたいと自身から言ったものの、日が迫るにつれて時に狼狽ぶりを見せることがあった。天下に向かって毒舌を吐くあの田嶋陽子女史が一介の女学生のようにうろたえを見せるのである。それぐらい時には揺れ動く不安の日々を過ごしていたと思えた。こればかりはさすがの田嶋女史も未知との遭遇体験なのであろう。

 作品を人さまに見せるということはハダカの自分を見せることである。作品の表現技術があろうがなかろうが、その人物の根底が見る人によっては見透かされるのである。そのことが本能的にわかっている田嶋女史だからこそ、怖さもつのったのであろう。

 最終的な作品選別の時にたくさんの花の画があることを知った。

 「含羞」という言葉がある。私の好きな言葉の一つだが、決してプロのように上手すぎない、その画の中に潜む、まるで乙女のような恥じらいがなんともいじらしかった。私は驚嘆の声を挙げた。田嶋陽子という人の本来の天性の素直さが見てとれたのである。そしてその画のイメージに合う一枚きりの筆文字の賛を入れることをすすめた。結果、文字もまた主張しすぎない初々しい含羞の素心が宿った。「錦上添花」が完成したのだった。

 今回の作品を見ると、女性運動の活動家としての側面から出てきた「Women」の作品や、毒舌家をほうふつとする「いいかげんにせい」の作品。そして軽井沢の森のなかでこそ生まれてきた静かな素心溢れる小品群など、力強い筆勢から繊細な筆致まで今を生きる田嶋陽子の万華鏡のような全貌展となった。

 タイトルの「こもれる日々」は、「木漏れ日」と、都会やメディアの喧騒を離れた森のなかに「籠れる日々」との掛詞でもあろう。ここに彼女の制作の心情のひとつの原点があった、と私は思っている。

 曼荼羅のような人柄と相まって、まことに楽哉である。

  平成二十七年大寒