2018年6月の第4回個展
「田嶋陽子 書アートの世界 こもれる日々 雨と花にさそわれて」
(表参道ギャラリーコンセプト21)
出品作品を収録した作品集です。

作品撮影:山下由紀子

雨雨… 685 × 350
300 × 345
390 × 350
265 × 240
爛漫 330 × 240
花筏 345 × 230
花神 330 × 215
空蝉 350 × 240
空蝉 345 × 240
350 × 245
320 × 320
風花 590 × 345
草木萌 345 × 465
蘇生 240 × 330
地霊 700 × 285
330 × 240
花深処 345 × 215
330 × 270
私という私 345 × 215
花精 300 × 270
夢見花 515 × 345
350 × 250
205 × 345
一日一死一生 320 × 325
月性 340 × 220
雨月 340 × 220
哭風 340 × 220
黎明 350 × 220
樹霊 235 × 315
樹精 215 × 210
南無 330 × 165
大老境 990 × 350
極楽 1365 × 700
地獄 1365 × 700
根源 540 × 340
諍い 520 × 390

田嶋陽子という生きもの

CACA 現代アート書作家協会 特別顧問
現代書家 岡本光平

 田嶋さんは一言で言うと不器用な人である。

 その生き方、遍歴からしても決して器用だとは思えない。器用だったらもっと別な人生の展開もあったのではないか、と思える。しかし、そんなことは大きなお世話というもので、処世と同じように書も甚だ不器用である。そんな不器用な人がなぜ書にしがみつくのか、正直なところよくわからない。わからないが、筆を捨てないところをみると惹き付けてやまない何かが本人のなかにあるのだろう。

 田嶋さんは、十年近い我々の書の研究会のメンバーではあるが、決して熱心なメンバーでもなく欠席も多い。しかし、出席した折の批評会では時々、舌鋒鋭く本質を突くことがある。本質とは書にいちばん大事な霊性である。その有無を嗅ぎ分けるセンサーを持っているのはいい。

 作品を持参しないで人の作品の批評などは申し訳ない、と言いながらも腹の底に溜めておけない性質なのであろう。トンチンカンなことや呆れることも正直多いが、どこか憎めないのは駿河育ちの楽天的な風土が人柄に反映しているのか、陽子の名前の通り天性の陽一筋で生きてきたからだろう。

 田嶋さんは、日頃の稼業に三足も四足もの鞋を履いている。まともに字を書く時間がないのは当たり前だ。欲張りなのである。書というのは、単にうまい字を書く巷の書道がある。先生や団体のコピースタイルだから、年数さえかければ誰でもどうにか格好はつくものだ。ところが田嶋さんが食いついた創作ポリシーはそのような書道ではなく、我々が標榜する、メッセージを込めた個の自由表現という簡単そうでいちばん難しい書の世界だった。そうなるともっと内省や内観、想像力の練磨や鍛練の持続を必要とする。しかし、そういう忙しい生活状況のなかで普通の書道ではなく、個の書を書こうなどとは無謀無茶な話である。その無茶ぶりに付き合わされるこちらはたまったものではないが、おそらく甘え上手に生きてきた百戦錬磨の恐竜にも似た田嶋陽子という生きものの前にはいつの間にか手を貸すことになってしまっている。どうにも苦笑である。

 不器用というのは、中途半端な器用さよりははるかにいい。いいという意味は、不器用イコール一見下手でもあるが、それよりは“拙”というものがあり、そこに誠実さ、正直さ、素朴さのある世界が宿ることを言う。“拙”は“巧”より格上である。とくに字というものは絵以上に人間の本性が隠せない。上手くても下品だったり、下手でも上品な字があったりする。これが書の本質世界だ。書の最後の砦は、巧拙を超えた品性にある。

 書は、字を知ってさえいれば誰でも筆で書ける。世間は良否の見分けがつかないかも知れないが、それこそピンからキリまである。田嶋さんの書く字がピンキリのどのあたりにあるかは見る人が見極めればいい。

 しかしながらこれだけは言える。田嶋さんは不器用だからこそ、野球で言えば直球だけを投げようとする。豪速球ではないが、球筋は素直だ。思わせ振りな変化球の小賢しさはない。姑息さもない。器用な上手さはないが濁りはない。それがいちばん大事なことだと思うのである。

 私見で言うと、絵がいい。ハッとするような絵がたくさんある。三振もあるが、田嶋さんのどこにこんなしみじみとした世界が潜んでいるのだろうか、と不思議に思うことがしばしばある。第一回めの個展から内心の驚きを隠せないでいる。今回も絵に書を入れた書画作品をなるべく多く出品することをすすめた。それが知られざる田嶋陽子という人の深いところに宿るもう一つの心の貌だと思うからである。

 字のほうは、どうしても髪を振り乱して頑張ってしまう傾向がある。書の制作は格闘技だから仕方ないが、知らずうちに田嶋陽子を演じてしまうきらいがあるのかも知れない。しかし、それはそれでいい。

 田嶋さんは、空海伝来の“飛白書”が好きだ。薄絹が宙を舞うように、スピード感のある奔放なカスレ書きがよほど性に合うのだろう。これがいちばん生き生きと楽しんで書いていることが伝わってくる。

 絵はサンプルがあって書いたのか、まったくのオリジナルかは知らないが、そんなことは一切問題ではない。若冲でも等伯でも写し自体がすでに立派な作品である。写しはコピーとは違う。田嶋さんの絵の澄んだ落ち着きのある描線や淡い色彩のなかに、もう一人の慈母観音のような“素”の田嶋陽子が垣間見える、と私は勝手に感じている。人というのは実に摩訶不思議である。

 田嶋陽子という人は、あと数年で八十歳を迎えようとするのにもかかわらず、あのがむしゃらに生きる馬力は人間として大したものだと思う。自分自身にまだまだ負荷をかけ、前向きに攻撃の手を緩める気配はない。阿修羅である。年齢に応じて枯れようとしたり、守りに入ろうとしない貪欲さは一向に衰えを見せない。生きて生きて生きまくる、そのこと自体がすでに素晴らしいことではないか。

 田嶋さんの作品は、生き方のかたちというよりは、進行形の生きもののかたちと言うにふさわしい。ドタバタしながらも一歩の前進である。きっと多くの人を楽しませるに違いない。頓首。