2019年6月の第5回個展
「田嶋陽子 書アートの世界 こもれる日々 反戦」(表参道ギャラリーコンセプト21)
出品作品を収録した作品集です。

作品撮影:山下由紀子

「君死にたまふことなかれ」与謝野晶子(1904) 1515 × 727
「死んだ男の残したものは」谷川俊太郎(1965) 1515 × 727
「白骨街道」石川逸子(1986) 1210 × 2420
「白骨街道」石川逸子(1986) 1210 × 909
「白骨街道」石川逸子(1986) 1210 × 909
殺すな殺されるないじるな九条 1210 × 2420
「チョギン ヨギエ イッスムニダ(わたしはここにいます)」石川逸子(1986) 1200 × 3300
生① 425 × 375
生② 507 × 480
生③ 452 × 470
生④ 410 × 420
生⑤ 467 × 460
Groan and Forget it 365 × 347
It's never too late to revise 413 × 348
420 × 342
320 × 347
512 × 330
爛漫(青空) 365 × 502
爛漫 372 × 472
風月 402 × 497
May the force be with you ① 296 × 217
May the force be with you ② 296 × 217
囬生長久 688 × 345
今日在宅 明日不宅 865 × 645
まちぼうけ 322 × 234
雑草という草はない 334 × 244
運鈍根 335 × 244
華厳 330 × 242
孤月澄 350 × 230

素人と玄人

CACA 現代アート書作家協会 特別顧問
現代書家 岡本光平

 書について、というのがいちばん簡単そうでいちばん難しい。字さえ知っていれば素人の誰でも筆で簡単に書けるのも書だし、玄人の書家が書く字と一体何がどう違うのかと問われると、この明白な説明がさらに難しい。世間一般の書への目は残念ながらまことに貧弱で、本物とまがい物の見分けがつかない。テレビで取り上げている名画番組の数に比べて、書は皆無に近いから興味も薄い。ほんとは書ほどおもしろいドキュメントはないのに、難しいことを易しくすればいいものを、書家や評論家がよってたかって易しいことも難しくしている。自身の権威づけのための武装みたいなものである。

 書家の字は、通常は伝統の古典の書をベースに書くというものだが、昨今はこれも怪しい。古典を拠りどころにと言いつつも結局は師匠スタイルのコピーが圧倒的で、その団体や社中は同じ雰囲気や匂いが立ち込めている。

 弥生時代以来のムラ組織で、一列に並んでいまだに田植えをしているようなものである。ほんとの田植えならいいが、治外法権の芸術にはおかしな日本独自のありさまである。

 書家の字は基本的に技術の書だが、これも流派的な偏りがはなはだしい。戦後の日本書道などは、歴史を振り返れば表現様式の新開拓はあったものの、どう見ても大して語るに足るものではない、と近頃はつくづく思う。

 一方で昨今は、素人でも玄人でもないカジリ程度の中途半端な輩にかぎって恥ずかしげもなくメディアにウロチョロ登場しているが、書にとっては公害みたいなものである。出させる視聴率稼ぎのメディアの節操のなさを嘆くのもバカバカしい。良くも悪くも大衆化の時代なのである。ぼやいても始まらず、あらがうすべもないが、しょせんは風塵虚仮の現象だからどうでもいいと諦観するしかない。

 書の世界は、筆が達者に動くから上手い、とすべてを上手い下手でかたづけるわけにはいかない。上手くても品性に欠けるという書の究極の本質があるからだ。人品があれば書品もある。書品は人品の投影でもある。

 素人は技術的に下手でもいい字というのがあり、心うごかされる書というのがまれにある。たとえば野口英世の母シカさんの書いた手紙などは典型であり、誰も異論をはさむ余地はないだろう。

 古来からの禅僧や画家、学者といった人々から無名に至るなかにこそ珠玉の書がある。一休や白隠、熊谷守一や須田剋太、棟方志功、西田幾太郎ら数多の綺羅星が天空に輝いている。このことは世間のほうがよくわかっていて、美術市場の一角をちゃんと占めている。その意義と価値を認めるファンがいてニーズがあるからだ。書は人なりもここに生きている。

 一つの結論としては過剰な技術の装飾性を廃して、ほんとは抜群に上手いのにいい字に到達している人物がいる。能ある鷹は爪を隠して沈毅豪壮、超然独坐の境涯の書に至り、根底には中国日本の四千年の書のすべての技法を呑み込んでいるブラックホールのような人物を一人挙げるとするなら副島種臣以外には見当たらない。といっても世間的に知名度があるわけではないが、明治の元勲の一人として最初の外務大臣であり、硬骨漢のサムライである。空海と同等かそれ以上の巨星であり、化け物である。学識、人品、技術においてその極みに達している点で空海と共通している。どちらも千年に一人の人物と思える。佐賀出身ながら地元に展示館すらないのはどうしたものか。余りにもスケールが大き過ぎて理解の範疇をはるかに超えているからだろう。

 過日、画期的な出来事として、日本で中国唐時代の顔眞卿の書いた悲憤の書「祭姪稿」が展覧された。非業の死を遂げた甥を悼む祭文の原稿の書であり、中国書道史上の最高傑作の一筆である。どこが書として凄いのか、の説明は専門的な解説を必要とするので難しくなるが、それ以上にほとばしる激情の書として、史上はじめて登場した金字塔であることはたいがいの人が承知している。たった一枚の紙切れだが後世に与えた影響は計り知れない。普通に見ればきれいな字でもなく、上手さを見せつけた書でもない。なのになぜこれほど歴代の人々の心を揺さぶり続けてきたのか、人間としての全身全霊の魂がオーラとなって立ち上っているからに他ならないからだ。今風の言い方をすればバッドカリグラフィーの極致である。バッドとは汚ない、悪いの意味ではなく、技術に頼らないでひたすら大真面目に渾身懸命で書いている姿を言う。

 実はここに人間が字を書くことの本質がある、知性や意識を超えた人間の情念の結晶として霊性が宿るということがある。上手いとか下手とかの表面的な問題ではなく、字が生きているか死んでいるか、中身にウソがあるか、ないかのリアリティの問題なのである。

 そう考えると、「祭姪稿」と並んで書道史上の頂点にある王羲之「蘭亭序」や、空海「灌頂歴名」などは原稿やメモの類いで、バッドの書と見ることができるのだ。我々はその書の技法以上に、人間像や時代の空気、臨場の緊迫感といった想像を結んで起爆剤にし、感応の海に飛び込んでいるのだ。これが正しい鑑賞である。

 今ごろの書家の字は、小手先の芸であって等身大の人物の生きざまが浮上してこないから人気がないのは当然である。かくいう自分も書家の端くれとして魂を書いているなどとは言えないし言うつもりもない。こんなありがたい平和の時代に空海や副島のように生死をかけた生きざまの書が生まれるわけもない。言うつもりはないが、自分は職人か芸人に徹しながら書いた字を売って世間から食べさせてもらっている。徹してさえいれば、少しでも高みに至り、この先に何かが少しは自分なりに未知の世界が見えてくるかも知れないし、見たいという願望のみで筆を執り続けている。

 田嶋さんがある時自分から「やっぱり古典をやらないとダメですか?」 と尋ねてきた。 「やらなくていいですよ、人間田嶋で書けばいいでしょう」 と、躊躇なく即答したことがある。その理由はいくつかあるが、要は中途半端な手習い臭でウソを書くより、下手でも素人のナマの声色が出るほうが人間臭くていいと思うからである。ヘタのどこが悪いのか、と開き直るしかないないのが唯一の田嶋陽子という人の書の道だと思ったからである。ヘタでも愛されキャラの人間性が裏打ちされているのだからそれで十分であるし、ヘタというのもウソがなくていい。字と同じで変化球を投げたり、裏があるような腹芸ができる人ではない。暴投でも直球を投げているほうが似合う。しかしながら、それで人様に見てくれというのだから大胆不遜、勇気があると言うしかない。筆文字を通して何かを訴えたい、発信したいのだからやりたいように書きたいように書けばいいのである。許される年歳でもある。

 田嶋さんがこれからも筆を執ると言うなら、これから「大老境」に入るのだから、書に対する今までの妄執や固定観念をさっさと捨てて、素人の字のごとくひたすら“素”を目指し、大胆不遜から大胆不敵へと変貌する時が来たららおもしろい。人間、おそらくは固定観念を捨てることがいちばん難しい。しかし、書や表現世界にはそれができる余地がある。人間の姿かたちの老醜は避けるべくもないが、書を支える心の老醜はいただけない。大老境ならぬ大老醜になったら物笑いのタネである。果ては大老害になりかねない。

 書には齢を重ねてこそ観えてくる大老成の世界がある。