2020年
バティックの世界(ろうけつ染め)ーイギリスと日本でー

作品撮影:窪田正仁

「豊」 2020年CACA LIFE展 ベストカリグラフィ賞 受賞作品 915×670
「刺青(いれずみ)」 820× 865
「手は魔法」 360 × 440

「TAJIMA LIFE」の芳醇なバティック作品

書家 岡本光平

 田嶋さんから個展用の作品を見せられた。
 それは、意外にも新旧のバティック(ろうけつ染め)作品だった。
 新作のほうは、最近京都のほうの工房で制作したとのことで、字を書いた大作の書作品だった。旧作のほうは、40年近く前のロンドン留学中に制作した一群の作品と聞かされた。こちらは字は一部を除いてほとんどない。
 旧作品、つまり40歳はじめ頃のロンドン・バティック作品を見た時は、正直驚いた。とてもいい作品なのである。
 正直ついでに言ってしまうと、今までの僕の知っている田嶋陽子と同じ人の作品とは思えないぐらい、日本人ばなれしたみずみずしい感性がほとばしっている。過去に美術大学で訓練を受けたかと思うようなプロフェッショナルな作品で、こんな力があったとは一瞬信じがたかった。
 これらの作品が40年近くも眠っていたことにも驚いたが、田嶋陽子という人の内面にこのような感性が潜んでいることに少々どころか新鮮な衝撃を受けた。僕はその場において手放しでベタホメさせてもらった。それまでベタでホメさせてもらったことは一度もない。
 僕は一介の書家でそれ以上の何様でもないが、それなりに世界のアートをことあるごとに見てきた視野はある。その経験からの直感である。
 芸術などという嗜好品は賛否や好感があるのは当然だが、僕が良しとしたロンドン・バティックを他の人が見てどう思うかはわからない。しかし、これらの作品に限っては多くの人が共感するに違いない。反応が楽しみではある。
 京都バティック作品の新作のなかには、バティックならではのおもしろい効果作品もあるが、とりたてて字が変わったということもなく、このところの一連の文字作品の延長上にある。しかし、なんといっても持ち前のエネルギーがある。
 年齢やその他のことからして、これだけのエネルギーを放出できる女性は、僕の知りうる限りにおいてざらにはいない。このことも日本人離れしていると言えるかも知れない。インターナショナルなレベルだ。
 田嶋作品の字が上手いかどうかというような次元はもはやどうでもいいことで、ものをつくる、字を書く、書かざるを得ないという自身の生命エネルギーの噴出現象なのであるから、「TAJIMA WORK」、「TAJIMA LIFE」でいいのである。
 ロンドン・バティック作品に類型がないのもいい。どれも個性的だ。多色の極彩色ということもあるが、手が込んでいる。若かりしころ、相当に楽しく制作したことが伝わってくる。鮮度がまったく落ちてない。自由さとはつらつさと気持ちの余裕がある。まだ若くて時間の余裕もあったのだろうか。
 それは年齢の若さのせいなのか、ロンドンという異郷の空気が触媒となって、気持ちの上でなにかしらの化学反応があのようなエキゾチシズムを生んだのか、ご本人に聞いてもたぶん明確な答えは出てこないだろう。楽しみながら夢中でつくったものは後から理由づけしようとしてもできないものである。いずれにしても、散佚しないでまとまって残っていたことは実に幸いであり、TAJIMA WORKの生涯の傑作と言うべきロンドン・シリーズではないかと思う。
 田嶋陽子という人はだいたい頭や理屈でものをつくるタイプではない、と僕は思っている。本能直感型だから当たり外れも大きい。小器用さや小理屈でつくらないから外れも多いかも知れないが、今回のように心の底から楽しんでつくったものは的を射抜いて、圧倒的なオリジナリティが溢れ出す。
 小器用、小理屈でつくると媚びた作品になりがちだ。もっと端的に言えば、作品は売りたいが、売りたいために媚びることができないのが田嶋作品だ。そういうのを道を楽しむ、道楽と言う。しかし、芸術の本義は職人芸みたいな中途半端な技巧ものや、売らんかなの媚びた作品よりはそちらのほうが心が弾み、心に沸き立つものを感じさせてくれる。
 田嶋作品は、今でも長距離型で仕上げる絵が良い。短距離型の書がダメとは言わないが、これももう少し長距離型になればいいなと常々思うが、多忙多芸な人だから今さら無理だと思う。モノを創るというのはどこかで籠もって半分は鬱、半分は躁にならないと出てこない。しかも日常である程度継続しないと深まらない。字は簡単に書けてしまうのが落とし穴で、書となると本当は奥が深すぎてやっかいな世界なのである。
 それで文字を書きたいのはなぜなのか? 絵よりもストレートに字の持つ意味や言葉のメッセージ力に、自分の想いを転嫁できるからなのだろうか? ご本人に聞くまでもなく、僕自身も、「どうして書家を選んだのですか?」という質問がいちばん困る。
 「字を書くのが好きだったから」というようなつまらない答え方しかできないからだ。
 書は一瞬にすべてを凝縮する瞬間芸の極致だからよく言えばいさぎよい。悪く言えば誰にでも容易に書ける。
 あらゆる芸術のなかで書はもっとも難しく、もっとも容易なのが書であり、もっともわかりにくく、もっとも報われにくい、純粋に正当な評価もされにくい、という面倒なのが書である。見る側も見慣れていないから良し悪しがわからないのだ。したがって絵画の世界に比べてレッスンプロはあまたいても、作品を売るというトーナメントプロは万に一人もいない。
 それでも書を発表するというのは道楽以外の何ものでもないということになる。
 書きたい気持ちで、書きたいものを書きたいように書く、そこにあるのは純粋ということだけである。田嶋作品の書が、その範疇にあることは確かなことであろう。ただし、純粋と単純は紙一重にあることも心しなければならない。